「日本」とは?を問い続ける

ことばを磨く本 ①
『日本社会の歴史(上)』
『日本社会の歴史(中)』
『日本社会の歴史(下)』
網野善彦、岩波新書、1997年

ここにきて、「日本」あるいは「日本人」ということばが、
気になる世相となってきた。
レイシズム(racism)に代表される、極端な人種主義の流れは国内だけでなく、世界的な動きとなりつつある。
ひとつに、国内で少数(マイナー)の外国人を排斥しようとするヘイトスピーチとして現れている。
「日本」でのヘイトスピーチは、「日本人」以外の外国人のうち、
おもに朝鮮半島出身者が対象だ。
さらに、ヘイトスピーチという表現にまでいたらないまでも
外交面の政策で、中国が排外対象となっている。
それらの国々への賛同、同意、養護は、即「反日」とみなされる風潮がある。
そもそも「日本」とは何か?
「クールジャパン」は、懐かしさや格好良さなどのイメージが優先する。そこでは、幻影に近い模糊としたイメージだけの「日本」が強調されている。
そうしたとき、核心の「日本」の実像は見逃されがちだ。

「日本」の定義があいまいな状況のなか、
いま改めて、網野善彦が1997年に出した、
『日本社会の歴史』の3冊を「通史」として読み直してみた。

網野自身が、書いているようにこの3冊は「通史」として書いていない。

いうまでもなく本書は「通史」の体をなしていない。「日本通史」ならば最も大切であるはずの江戸時代中期以降、現在までの歴史を叙述することは、現在の私には到底不可能であり、本書はそれを欠いている。下巻P175

網野の専門は中世で、せいぜい江戸時代中期以降が限界ということだろうか。
網野に資格がないからというよりも、そんな大それたことを、ひとりでやるべきではないと考えていたと思う。
ひとりの権威者が通史を書けば、それが日本史の正史となりがちだ。
それよりもさまざまな分野の、さまざまな時代の歴史研究者が、
ネットワークで領域横断的に研究をすべきだ。
その端緒というか、問いかけがこの3冊だった、のではと思う。

網野は、1978年に『無縁・公界・楽-日本中世の自由と平和』(網野善彦、平凡社)を出し、ある意味、日本史研究で異端として注目された。
文献資料の解読のみに執着する研究者をよそに、文字史料の背後に隠れて、姿をなかなか現さない市井のひとびと(常民)を浮かび上がらせる網野の姿勢は、受験勉強の知識としてしか日本史に興味を示さないひとびとを良くも悪くも振り向かせ、日本史を大衆化することに成功した。
そのために網野が採った手法は、平民が記した証文や手紙などの地方文書(じがたもんじょ)や絵図などだった。

一度だけ、網野のインタビューをしたことがあった。
1999年5月、当時の茨城県行方郡牛堀町(現・潮来市)が閉町するにあたり、町史を編纂することになった。私はその編集の一端を担わせてもらうことになった。
牛堀町が消える、その記念としての町史の巻頭言として、網野に文章を書いてもらおうと提案した。
「あの網野先生が、……書いてくれるはずがない」
「第一、だれも知り合いはいない」
人口数千人の町史を著名な網野善彦が書いてくれるとは思っていなかった。
私は、2度手紙を書いた。思った通り、返信はない。
3度目を書く代わりに、直接、網野の自宅に電話を入れた。
手紙は読んでいた。そこで、単刀直入に言った。
「網野先生が、海夫注文を見出す上で縁のあった牛堀町が閉町します。
またかつての町長の須田誠太郎の家がまもなく取り壊されます。
もし文章をお書きになる時間がなければ、牛堀町周辺をご案内します。
そのときにインタビューさせてください」。
私は、網野が「中央公論」に連載していた「古文書返却の旅」をあらかじめ読み、そこで仕込んだ知識を使った。

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若い頃、駆け出しの歴史研究者は、水産庁の委託を受け、漁業関連の資料を集める仕事をしていて、霞ヶ浦にも来ていたと書いていた。
「海夫注文」、「須田誠太郎」ということばを出したとき、
電話の向こうで「う」っという声が聞こえた気がした。

1999年5月10日、網野善彦にお出まし願って、船で霞ヶ浦に出て、湖岸から牛堀町を見てもらった。そして、船から下りて、2時間程度インタビューをした。
「一面識もない若造の私を、当時の町長、須田誠太郎さんは快く受け入れてくれました。和服を召しておられ、老翁ということばがぴったりで、話を真剣に聞いてくれ、水行直しはじめ貴重な文書をその場で貸してくださいました。ありがたかった」。

網野が懐かしそうに語った。
その年の10月『古文書返却の旅』が中公新書として刊行された。
そして、町史が刊行された2001年、須田誠太郎の家が取り壊された。

2000年頃は、網野は日本史にかかわる書籍、雑誌でひっぱりだこだった。
そしておそらく網野が意図していた通り、考古学、民俗学、古代史から現代史まで幅広い歴史研究者が参画して、領域横断的な「日本」を読み直す書籍が次々と刊行された。
そのひとつの成果が、2000年、講談社からの日本の歴史シリーズ全26巻だろう。
網野善彦は、そのシリーズの序章的位置付け(00巻)で
『「日本」とは何か』を刊行した。
いまその奥付を見ると2000年10月24日と打ってある。
しかし、その1か月後の11月5日に事件が起きる。
藤村新一による「旧石器捏造事件」だ。
この事件は、網野と直接関係はない。
ただ、網野の『「日本」とは何か』と同時に刊行された同シリーズの01巻、岡村道雄の『縄文の生活誌』が、藤村新一の旧石器の発見を先史研究のエポックとして扱っていたために、大問題となった。
タイミングが最悪だった。
結局、岡村の『縄文の生活誌』は書店から回収され、絶版となる。
当然、同シリーズ全体の評価が下がり、編集委員・網野善彦の評判も下がる。
岡村は、その後、『縄文の生活誌』について改めて筆を入れ、後年に書き直している。
この事件を境に、日本史、あるいは日本について領域横断的に語ることがやりづらい雰囲気になった。
熱が冷めたときの大衆化のもろさだ。
twitterがまだ普及する前で、インターネットで「2ちゃんねる」が始まったばかりで、いまでいう炎上はなかったと思うが、歴史研究者が専門分野をまたいでダイナミックに互いに語り合う機会は少なくなった(もちろんまったくなくなったわけでなく、日韓が協力した2012年の「古代日本と古代朝鮮の文字文化交流」は10年以上にわたる互いの研究者の成果のひとつで、このような地道な共同研究は国立歴史民族博物館が中心となっていまも地道に取り組まれている)。

もともと、日本史の研究者は世の中の動きに疎く、積極的に態度を明確にするようなひとたちでない。
古代史なら古代史なというように、時代区分ごとにくぎった歴史を、こつこつと考証することが歴史研究と思っている節がある。
歴史とは過去に属することがらのみを扱うのでなく、
未来へとつながる普遍的な何かを学ぶのも歴史の意味でもあり、
それがなければ歴史を学ぶ意義は薄い。
歴史を大衆化したということで網野は突出していた。
しかし、革新的な歴史家のイメージが先行するなかで、
当の本人がほんとうに伝えたかったこと、
領域横断的な研究者のネットワークの意味が
伝え切れていなかったのではないか。
2000年の旧石器捏造事件以降は、大胆な「日本」について語るよりも、
研究としての確からしさ、その確証をまず明確にすべきだ、
という風潮が優先されていったように思う。

ちなみに、2001年に小泉純一郎が内閣総理大臣となり、第一次内閣が発足。
ここから規制緩和が次々と進められていく。1999年に派遣労働法が改正され、26種(現・28業種)に限られていた派遣労働が原則自由化された。派遣期間は1年から3年と定常化した。

そして、2008年のリーマンショックにより大量の派遣労働者の雇い止めが発生。
ここにきて、派遣労働とは労働の自由な機会の創出、働く機会を増やす規制緩和でなく、企業の安全弁でしかないことが明確になる。
「分厚い中流層」が崩壊し、正規雇用に対し、身分や収入が不安定な非正規雇用が増えていく。
「正規雇用」と「非正規雇用」。
「日本」という、カッコに入る者と外側の者の格差が生まれる。
規制緩和とは、規制で守られていた枠を外し、
機会の平等で一斉に競争が起こり、
強いものと弱いものとの差が明確になること、
差別化の始まりだったのか? と思われされる。

もちろん、2000年を境に生じた歴史研究上の事件と
小泉内閣の規制緩和はなんの因果関係はないが、
そこに歴史上の偶然といい切れない何かを感じてしまう。

2004年2月、網野善彦は亡くなる。
1928年(昭和3年)1月22日の生まれだから、76歳だった。
意外だが、かなりのヘビースモーカーで、死因は肺がんだった。
旧石器捏造事件が発生した2000年からの最晩年を網野はどのように過ごしたのか。
いまとなっては聞くことはできない。

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約20年を経て、改めて『日本社会の歴史』3冊を「通史」として読んでみた。
網野の『日本社会の歴史』の読み方は、ひとによって読み方があっていい。
それだけ、様々な読み方ができることを、今回改めて知った。
同書は、網野が提示した1997年時点での歴史学上での学説を前提にしている。
「日本社会」が、時代を経てどのように形成され、何が変わり、何が変わらずに続いているか。
その過程をどう読み解くかは、ひとそれぞれで、ひとつの定説はない。
逆に時代を経て、どんな視点からでも読み説くことができ、その都度、新たな発見がある。
それは同書が歴史に残る良書であることを示している。

網野が日本について書くとき、ほとんどはカッコ付きの「日本」だ。
このカッコは重要な意味を持つ。
無批判的に受け入れられている日本ではない。
常に批判され、問い続けられる「日本」だ。

たとえば、「日本」を成り立たせている弧状列島としての「日本」の地勢は、
アジア大陸の架け橋として、第4紀更新世以降、比喩でなく、歴史的意味としてあり続ける。
当然、「日本海」と仮に名づけた内海が氷期で陸続きになっても、縄文というほぼ8000年前から紀元前3世紀まで数千年にわたって続く間は、文字通り架橋であり続けた。すなわち、縄文という文化は

アジア大陸の北方、中国大陸や朝鮮半島、東南アジアなど諸地域の文化と、海を通じてのかかわりを持っていたことは確実で、孤立した「島国」の文化と考えるのは、現在の「日本国」の国境に影響された誤った見方といってよい。上巻P11

そのひとつの証は、伊豆諸島の神津島の黒曜石であり、三内丸山遺跡の巨大な遺跡群だ。
列島に稲作栽培とその文化をもたらした弥生時代、東国以北は、稲作を取り入れなかった。それは、すぐれた弥生文化が東国にまで至らなかったのでなく、交易を営む東国のひとたちが、集団作業、定着を前提とする稲作を好まなかったのではないかと網野は考える。
これまでの歴史では、ヤマト政権の拠点があった近畿を中心に進んだ文明をもつ西国に対し、未開の東国という視点に陥りがちだ。
網野は古代から12世紀の奥州藤原文化、さらにアイヌによる北海道は、日本国と北東アジアを結ぶ交易面で独自の文化をもち、「日本」に含まれないさまざまな独自の時代の物差しで見るべきだと考える。
当然、先島諸島も「日本」の枠でとらえることができない。琉球は、ときに台湾を通して中国大陸と交易し、独自な位置を保っていた。

608年に隋は琉球に遠征軍を派遣しており、『隋書』琉球伝には、その社会、風物の一端が伝えられている。このように沖縄諸島と中国大陸との交渉も7世紀から8世紀にかけて活発化し、日本国からの影響もふくめて沖縄諸島の社会にも首長制が胎動しはじめたのである。上巻P160

では「日本」という呼称はいつごろから使われたのか?
それは、689年、天武の逝去により、大后・鸕野讃良(うののさらら)が施行した飛鳥淨御原令によると網野は考える。

この令に、「倭」にかわる国号「日本」、大王(おおきみ)にかわる王の称号「天皇」、そして「皇后」さらに「皇太子」がはじめて制度的に定められ、日本国はここにはじめて列島に姿をあらわし、天皇の称号もはじめて正式なものとなったのである。上巻P109

さらに、網野は補註で

「日本」は部族名でも地名でもなく、日の出るところ、つまり東の方向を意味し、太陽信仰を背景にしつつ、中国大陸を強く意識した国号であった。また「天皇」も中国大陸の君主号「天王」と結びつける見解があるが、いずれも大陸の大帝国を意識しながらも自らも小帝国の道を進もうとしてきた、この国家の支配者たちの立場を端的に示している。上巻P109

とことわっている。これは、その前の607年にヤマト政権が小野妹子に持たせた国書の「日出(ひい)づる処(ところ)の天子、書を没する処の天子に致す、恙無(つつがなき)きや」と同じ構造を有している。
7世紀にヤマト政権によって使われ始めた「日本」。その領域は、時代により漸次広がっていく。
ときに、東国や先島諸島などによる抵抗とヤマト政権の懐柔の繰り返しにより、その境は揺れ動く。
939年に平将門が「新皇」となり東国を支配し、940年に藤原純友が瀬戸内一帯の西国を支配した天慶の乱はその一端だ。網野は、藤原純友の肩書きを「海賊」とカッコ付きにして、以下のように説明する。

元来、瀬戸内海を中心とする西日本の海は、弥生時代以来、漁撈・製塩に従事し、海上交通を担う海民たちの活発な舞台であり、広い平野の少ないこの地域の豪族のなかには、船の操縦に巧みなこうした海民を基盤として広域的な交易に従事するとともに、水軍を組織し、海の豪族になる人びとが多かったのである。中巻P17

純友の軍勢はまさに海民であり、自分たちの権益を守るために戦う誇り高き民だった。そして、時代が降り、14世紀から15世紀に暴れまわった「和冦(わこう)」と呼ばれる海賊も、けっして「日本」の海賊でなく、「西北九州の海の領主たち」で、

済州島や朝鮮半島南部の海上勢力と結びつき、元や高麗から「和冦」と呼ばれた海上勢力になって活発な交易活動を展開しはじめていた 下巻P22

時代の表舞台にでなかった多様な平民の姿、すなわち職能民と呼ばれる多様な職をもつ民は、ある時代は権力を持つ者に奉仕する者として「日本」の中に組み入れられるが、ときに権力側からはじかれて差別の対象となる。

天皇の食膳に供する魚貝、海藻、果実などの山野河海の産物、海の幸、山の幸が贄(にえ)として畿内の網曳(あみひき)・江人(えひと)・鵜飼(うかい)などの天皇直属の贄人をはじめ、諸国の贄人から貢進された。 上巻P128

こうした多様な職能民は、もともとは

人の力の及ばぬ自然、神仏の世界との境界として、川原・中州・浜や巨木の経つ場所 上巻P162

に立った市庭(いちば)に集まった人たちだった。そこは神の力の及ぶ場であり、人知を超えた神との交信を担う技をもつ巫女や、神を喜ばせる芸能の民が活躍する場であった。
たとえば穢れは、10~11世紀では差別意識はない。むしろ

悲田院に収容されていた孤児や病者が、同じ境遇に陥った人たちとともに、都をはじめ西日本の都市的な場所で、人々の畏怖する穢れの清めを職能とする集団になっていく 中巻P34

そのときは、畏怖を払う者として、宮廷が組織し、奉仕する多様な職能民だった。
さらに12世紀、新に登場した仏教教団と結びつき、

それぞれの「道」や「芸能」に即して職種別の組織を形成し、官司を通じて天皇家に直属し供御人の地位を得て職能に応じた奉仕をし、一方では摂関家の寄人や神社の神人、寺院の寄人になり「神仏の奴婢」という資格を得て、平民の負担する課役や関・渡・津・泊での交通税の免除の特権を保証されようという動きも顕著になってくる。中巻P66

そこでもまだ、職能民を差別する意識はなく、むしろ特別な能力を有したひとであり、ときに畏怖の対象だった。つまり「日本」のカッコの内側にいて、特殊な能力者として入っていた。
ところが15世紀ごろから、村落や都市が自治組織を持つようになると、遍歴や漂白など自立的な宗教民、芸能民、商工民に対し警戒心が生まれ、差別へとつながる。
たとえば「職人歌合(しょくにんうたあわせ)」に描かれた多様な職人に、みずから「賤しめられた人びと」と発言させており、

平安期には官司に属し、鎌倉期にも「悪党」「海賊」といわれた山や海の領主のネットワークの下でそれなりの役割を果たしていた博打たちも、職人歌合にあらわれなくなり、社会の陰の存在になりはじめたとみられる。 下巻P47

さらにこのころ社会の文明化の進展、人間と自然との関係の新たな変化にともない、穢れに対する社会の対処の仕方にも大きな変化がおこってきた。

かつての人の力を超えた畏怖すべき事態であった穢れは、この時期になると、むしろ汚穢(おわい)として忌避されるようになってくる。その中でセックスそれ自体を穢れと関連させてとらえる見方も強くなり、それが血の穢れの忌避と結びつき、女性に対する社会的な差別が全体として強くなりはじめた。 下巻P47

時代とともに「日本」というカッコの領域、ひとは、変化する。
「日本」という領域が明確になればなるほど、カッコの内側にいるという意識からは、差別意識が醸成される。それがより鮮明になったのは、維新により生まれた明治政府で、

憲法制定にいたる過程と、さらにそれ以後の国家的な教育のなかで、この国家の指導層はきわめて偏り、また誤りにみちた「日本国」「日本人」の像を日本人自身の意識のなかに徹底的にすり込んでいった。 下巻P151~152

歴史は進化し続けるという前提にたてば、生存競争に生き残るものが進化する者で、カッコに入り、そうでないものはカッコの外に置かれる。競争を勝ち抜くためにはカッコの中にいるしかない。それは、単純なメッセージで、効率的な「富国強兵」の国家像に合致していた。
外されたくなければカッコの内側に入るべし。
それを明治政府が意図的に行ったのが教育と軍隊だろう。教育勅語しかり、軍人勅諭しかり。
たとえば『天皇の軍隊』(大浜徹也、講談社学術文庫)として組織された帝国陸海軍は、徴兵された「国民(成人した男子)」に「臣民」として天皇への忠誠を誓わせ、お国のために突き進むことを命じた。
朝鮮半島からつれてこられたひとは、「国民」でなく、カッコの外に置かれ、差別の対象となった。
ただ、国家だけがカッコに入るひとを選別するのではない。

現代社会、学校でのいじめでは、カッコに入る、入らないで壮絶なまでの選別が行われている。それが次第に激しさを増しているように思える。
教育勅語による呪縛はとうに解けているのに、である。
有り体にいえばカッコに入る、入らないはひとりひとりの意識の問題ともいえる。
網野の『日本社会の歴史』を通史として読み終わったとき、「日本」という社会を成り立たせている実体は、歴史上のある時代以降から「ある」のでなく、その時代を生きる者の意識の総体として変容を続けるものであることが理解できた。
当たり前といえば当たり前なのだが、それは権力側に意図的に生み出されたというのは簡単だが、それを受容するのはひとりひとりの意識の側にあるといえる。
どのような意味で「日本」ということばが使われているのか、それはたえずひとりひとりが咀嚼(そしゃく)し、問い直さなくてはならない。
網野は最終章を「展望-17世紀後半から現代へ」とした。
たしかに、第4紀という地球史からすれば江戸時代から現代までの400年近くはほんの一瞬で、連続しているといえなくもない。
改めて「日本」とはなにか?

日本列島の社会が決して斉一でも均質でもないことを明確にした上で、単に列島の東部と列島西部というだけでない列島社会の地域の区分のあり方、そのそれぞれの個性を明らかにして地域の今後の生きる独自な道を探るとともに、列島の諸地域とのかかわりを追究し、「国家」「国民」の枠をこえ、 下巻P163

ひとりひとりの問題として、問いつづけられなくてはならない問いだ。

(文・野末たく二)

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問い[川にはさまれた地域に住むべきでない?]

平成27年関東・東北豪雨の鬼怒川堤防決壊について、
河川工学の高橋裕氏が10月14日(水)の毎日新聞でコメントを紹介したことを
私のFBでシェアしました。
それに対し、多々ご意見をいただきました。
なかで、ある方の以下のご意見に対し、
別の角度から考えてみたいと思います。
これは、個人を特定しての議論でなく、
私たちがだれもが持っているあるドグマ(思い込み)にかかわっていて、
それを克服することで、何かが生まれる可能性があるということを狙いとしています。

●鬼怒川堤防決壊の水害にたいするある方の意見

本来人が住むべきでないところに住んでしまっていたことが最大の過ちだと思う。
二つの川に挟まれた地域に住むこと自体だめだとおもう。

「2つの川に挟まれた地域は、本来人が住むべきではない」のか?

この問いは、どんな歴史の物差しを当てるかで見方が変わってきます。
2つの川に挟まれた地域は、当然、水害のリスク(危険)が高い地域です。
「なぜ、そんな危険な地域に人は住んで来たのか?」
という問いに置き換えてみます。そこから何が読み解けるのか?

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