平成27年関東・東北豪雨の鬼怒川堤防決壊について、
河川工学の高橋裕氏が10月14日(水)の毎日新聞でコメントを紹介したことを
私のFBでシェアしました。
それに対し、多々ご意見をいただきました。
なかで、ある方の以下のご意見に対し、
別の角度から考えてみたいと思います。
これは、個人を特定しての議論でなく、
私たちがだれもが持っているあるドグマ(思い込み)にかかわっていて、
それを克服することで、何かが生まれる可能性があるということを狙いとしています。
●鬼怒川堤防決壊の水害にたいするある方の意見
本来人が住むべきでないところに住んでしまっていたことが最大の過ちだと思う。
二つの川に挟まれた地域に住むこと自体だめだとおもう。
「2つの川に挟まれた地域は、本来人が住むべきではない」のか?
この問いは、どんな歴史の物差しを当てるかで見方が変わってきます。
2つの川に挟まれた地域は、当然、水害のリスク(危険)が高い地域です。
「なぜ、そんな危険な地域に人は住んで来たのか?」
という問いに置き換えてみます。そこから何が読み解けるのか?
「開発の歴史は失敗の繰り返し」という歴史観
歴史地理学者の古島敏雄は、『土地に刻まれた歴史』(岩波新書、1967年)で、
日本の開発の歴史を緻密な現地調査を踏まえて、検証してきました。
詳しくは述べませんが、古島の結論として
<ひとの開発の歴史は失敗の繰り返し>
ということです。
たとえば、私たちは日本史で、条里制は大陸から導入された新たな土地制度と習ってきました。
律令制という当時の最先端の中国の制度を採り入れ、
税を日本国中から公平に集めるため田地を碁盤目状に区切るのが条理制です。
でも、条里制が実際どう運営されていたのか? あまり検証されていません。
古島はそこを丁寧に検証します。
川が盆地から流れ出す奈良の条里制を調べ、結果、洪水により役に立たず、
収量は少ないけど、安定的に収穫できる棚田に戻ったことを突き止めました。
古島の『土地に刻まれた歴史』の信濃川の下流部についての検証があります。
そこに用いられているのが「正保2(1645)年白根郷絵図」です。
アップします。
見て分かる通り、いまの信濃川下流部は、「2つの川に挟まれた地域」で、
信濃川が乱流し、沢山の池沼を生み出し、その川のど真ん中に集落名がいっぱい書き込まれています。
同じように「2つの川に挟まれた地域」は岐阜の輪中地帯のようにあちこちにあります。
地名でも河内は淀川下流の大阪はじめ全国にあります。
現代人の物差しからいうと、こんな危険な場所に何で住むの? と思います。
再び、古島の検証に戻ります。
古島によれば、実際に信濃川下流域で水害は数年から10数年に1度はあり、
人々は、まず個人の家の周り、次に集落の周り、そして次は河川の堤防というように
失敗を繰り返しながら、少しずつ、堤防を造っていったとのことです。
また、感心したのは税制です。
洪水になりそうなときに、わざと堤を切って水を流す
「流作場(ながれさくば)」の水田はあらかじめ税を軽くしていました。
また、土地所有は認めていたのものの、地盤件は認めていなかったというのです。
地盤件って何? と思いませんか。
水害があって、すっかり水田が水没してしまったときに、不公平にならないように、
くじ引きで田地を再割り振りした「田地割替制度」があったというのです。
「地盤はみんなのもので、変更ありだからね」、ということなのです。
なんて合理的な! と思いませんか?
2つの川に挟まれた地域の危険性を知っていたから
こんな知恵が生まれるのですね。
いまの私たちの物差しで考えた不合理は
その当時の物差しを当てて読み解くと、実は合理的なことっていっぱいあるのです。
立場の違いにから始まる歴史の読み解き
長いですが、もう少しおつきあいください。
たとえば、私の住んでいるのは、茨城県つくば市の桜川低地から20m程度の高い台地です。
そこから見ると、桜川低地のつくば市の旧集落の金田、栄などは危険な地域です。
実際、9月10日の時も、桜川から一部で越水があり、避難指示が出ました。
なんであんな危険な場所に家を建てるんだ? と思うことは、
なぜ低く危険な地域にひとが住むのか? という歴史的な問いにつながります。
でも、この問いは新しくこの地に移り住んだ「新住民」ならではでしょう。
それは、はるか20㎞も先の霞ヶ浦から延々と上水のパイプで飲料水を運んでもらっていることを失念し、安全に快適に暮らしているからこそです。
ひとたび、上水が断たれたら生きていけません
(実際、3.11のときは水道がしばらくストップしました)。
ちょっと前の時代、こんな高台でどうやって水を得るのでしょう?
こう読み解けば、なぜ台地に集落が形成されなかったか、
そして、危険と思われる低地が水を得やすい暮らしやすい場所であることが分かります。
※同じ台地でも新治台地は、台地の上に集落が形成されました、それはなぜでしょう?
このように、歴史の物差しをどのように当てるかでまったく見方が変わってくるのです。
弥生時代の象徴とされる登呂遺跡は、実は洪水で放棄されたことはご存知でしょうか?
登呂遺跡は安倍川の低地に作られた集落で、やはり優れた最先端の稲作農耕が営まれたと教わってきたのですが、
やはり失敗で、水害により放棄されたらしいことが、木の年輪を丁寧に調べ、検証することで分かってきたのです。
真逆なこともいえます。
関東地方は弥生遺跡がなぜかとても少ないのです。
これまでの歴史観だと、「進んだ西日本と遅れた東日本」と言われてきました。
でも、私は違うと考えます。
あえて、弥生文化を選び取らなかったのではないか? と。
東日本の当時のひとたちは縄文時代の暮らしが豊かであることを知っていて、
あえて稲作を選ばなかったのだと。
それは、牛堀町(現・潮来市)の町史編さんに関わらせてもらったときに、
縄文時代の遺跡からフグの大量の骨が発見されていることで感じました。
かの高級魚をいっぱい加工し、流通させて儲けていたんだ! と分かった時、
とても遅れた文化だなんていえないぞ! と知ったのです。
同じことは、三内丸山遺跡に行ったときも感じました。
こうして考えると、私たちは、歴史は進歩するものと勝手に思いこんでいることに気付きます。
「2つの川に挟まれた地域は、人が住むべきでない」と提言した方は
それに続いて、
どんなに強固な堤防を造っても無駄ではないか
と述べています。
おそらくそれが一番言いたかったことだと思います。
つまり、洪水はあるものとしてつきあうべきだと。
「2つの川にはさまれた危険な地域にひとは住むべきではない」
という問いを
「2つの川にはさまれた危険な地域になぜひとは暮らして来たのか?」
と疑問形にすることで、そこにどんな歴史があるかを読み解くことができます。
そして、読み解いてで見えてきたことから
「ではどうすれば、よりよく暮らせるのか?」
の答えを見出す機会になるのではないでしょう。
その意味で、今回、この問いを提起していただき感謝です。
立場の違いを争点にするのではなく、なぜ立場の違いから見方が変わるのかへと視点を変えるとき、意外な発見が生まれるのですね。
(結エディット=野末たく二)