暴れ川「鬼怒川」(2)-100年単位の変遷

鬼怒川の流路変更は、大きく分けて以下の5つがある。

①今の桜川の辺りを流れ、深い谷を作った時代=2.9万年~2万年前
②今の小貝川~利根川低地の辺りを流れ、深い谷を作った時代=2万年~6000年前
③今の鬼怒川の流れとなって、砂泥で谷を埋めた時代=6,000年前~300年前
④鬼怒川が利根川とつなげられた時代=300年前~130年前
⑤利根川水系の一部として管理される時代=130年前~

このうち、①から③までは、地球の大きな力により地形が変わることで川の流路が変わった動きで、時代の物差しで言えば1万年単位の出来事で、前回述べた。

今回は④と⑤の比較的新しい時代の流路変更について。

鬼怒川に限らないが、近世から近代にかけての河川は、治水や利水として人が川を利用するために流れをたびたび替えてきた。これにより、舟運が発達し、物流は大量に、安全に運べるようになった。
いわば、ひととの関わりで流路が変更された社会史的な動きで、数100年、場合によって数10年単位の出来事となる。

鬼怒川の流れ(結城市側から関城(筑西市)を臨む

 ④鬼怒川が利根川とつなげられた時代=300年前~130年前

天正18年(1590年)、徳川家康が江戸城に入った後、東京湾に流れ込んでいた利根川の改修が始まる。
当時の関東平野は荒川、利根川などの大河川が乱流、流れが定まっていなかったといわれる。
徳川家康の利根川改修は、東京湾から銚子へと替える「東遷(とうせん)」で、流れ(瀬)を替えることから「瀬替え」といわれる。
ただ、瀬替えは、一度に行ったのでなく、各所で時代ごとに少しずつ進められた。何度も失敗し、その都度改良を加えながら繰り返しながら、乱流していた流れが少しずつひとつの河川へと姿を替えていったというのがおおよそのイメージではないだろうか。
瀬替え以前の流れのおおまかなイメージが以下の図。いまの利根川下流域に、「香取流海(かとりのながれうみ)」の大きな入江が広がっていた。

Š利根川東遷以前

Š利根川東遷以前の河川の流路のイメージ。 図は河川の流れを分かりやすくしたもので、黄色が鬼怒川から香取の流海への流れ。緑色が古利根川、古荒川の流れ(『大地への刻印-この島国は如何にして我々の生存基盤となったか』P138の図を加工)

東遷事業の期間は半世紀近くにわたった。その主なものを挙げると以下のようになる。

・文政3(1594)年=徳川家康の四男、松平忠吉が忍(おし=現・埼玉県羽生市)の藩主となり、会ノ川(あいのかわ)を閉め切り、分流である浅間川を本流とした
・元和7(1621)年=伊奈忠治が浅間川を閉め切り、新川を開削。利根川を渡良瀬川と合流させる(新川通)
・元和7(1621)年=伊奈忠治が利根川、渡良瀬川を東流させるため赤堀川の開削を始める
・寛永6(1629)年=伊奈忠治が、鬼怒川を小貝川と切り離し、利根川(赤堀川)へと合流させる瀬替えを始める。この結果、鬼怒川は利根川水系となった
・寛永6(1629)年=伊奈忠治が荒川を西流させて入間川に合流させる
・承応3(1654)年=伊奈忠克が赤堀川を数度にわたり浚渫開削し、利根川の原型ができあがる(下図参照)

利根川東遷後の河川の流路のイメージ。 図はあくまでも河川の流れを分かりやすくしたもので ある一時期の様子を示したものではない。 『大地への刻印-この島国は如何にして我々の生存基盤となったか』P138の図を加工

利根川東遷後。利根川が鬼怒川と合流し黄色の流れが広がった(『大地への刻印-この島国は如何にして我々の生存基盤となったか』P138の図を加工)

上記の事業で中心となったのが、伊奈氏で、関東郡代の伊奈忠治と、息子の忠克の時代に利根川の流れがほぼ定まったとされる(『大地への刻印-この島国は如何にして我々の生存基盤となったか』、1996年、農業土木歴史研究会)。

利根川の東遷は、大きく見ると、いまの埼玉県、千葉県、茨城県の県境にかけて横たわる2つの台地、千葉県側の下総台地と茨城県側の猿島台地を開削し、そこに新たな河道を作り、利根川本流の流れを呼び込むという事業だった。
標高20~40mの洪積台地の開削は、現在の土木技術を持ってすれば容易だが、江戸初期にあって一大事業だったことは想像がつく。実際、何度もやり直しが行われている。

利根川東遷がほぼ形になった段階のイメージ。 薄茶色の猿島台地と下総台地を開削することで初めて流路を替えることが可能となった。 千葉県立博物館デジタルミュージアム「利根川東遷と関宿藩」より

利根川東遷がほぼ形になった段階のイメージ。
薄茶色の猿島台地と下総台地を開削することで利根川の流路を替えた。千葉県立博物館デジタルミュージアム「利根川東遷と関宿藩」より

この利根川東遷が何を目的としたかについて議論が分かれる。
・江戸城のある江戸市中を水害から護る(治水)
・瀬替えの結果、かつての古利根川、古荒川などに低地帯に池沼ができ、用水を整備し、新田開発を行う(干拓)
・銚子口から利根川、さらに関宿から江戸川へという河川航路が出来上がった(利水)

思うに、どれかひとつが目的というよりは、水を治めることから、利することまで全体を視野に入れて、時代毎に少しずつ進め、その結果の総体が、後の時代から見「利根川東遷」となったのではないかと思う。

・利根川の舟運と高瀬船
これらの目的の中で、舟運を例に挙げれば、利根川~江戸川の内陸航路、「内川廻し」が誕生したことは、江戸への物資運搬で大きな成果を上げた。

房総半島の外側を通る航路は、波が高く、潮の流れが速い。それに対し、内陸部の利根川~江戸川の内川廻しなら、大消費地の江戸まで、大量の物資を安定的に、ほぼ計算通りの日程で供給することができる。
内川廻しの主要な河岸(港)へは、日本海から津軽海峡を経由した海船により米、海産物などが運ばれて来た。

潮来市に残る「仙台河岸」は、仙台藩が藩米を備蓄する米蔵を設置した場所で、後に米蔵は龍ヶ崎市に移された。
さらに江戸向けの醤油や味醂などの醸造業が18世紀中頃以降、関東一円に起こり、同業者の組合、株仲間が誕生した。

利根川の舟運で用いられたのが、高瀬船だ。高瀬船は、喫水線の低い大型船で、櫓で漕ぐ以外にも帆を張り、風を利用したりした。
利根川水系の川沿いに、物資の集積場、風待ちの港として河岸(かし)が川沿いに次々に生まれた。
今回の水害の被災地、水海道(常総市)も、江戸時代の鬼怒川を代表する河岸のひとつだ。

高瀬船_下妻大正期

大正期の鬼怒川の高瀬舟。 いまの下妻辺り(『写真集 利根川高瀬船』、千葉県立大利根博物館、1997年、P62より)

高瀬船を使った利根川水系の舟運は、江戸期から昭和初期まで実に250年近く続いた。
たとえば、つくば市北条のブランド米「北条米」は、明治期末から大正期にかけて、北条の岩崎屋が筑波山麓から宗道河岸(現・下妻市)まで陸路を運び、そこから高瀬船で東京まで運んだ。東京をマーケットにブランド化が成功した事例で、鬼怒川の河岸からの舟運が欠かせない要件だった。

大塚岩太は酒の小売と併せて米の取り引きも始めた。彼は地元産の一俵当たりの容量を品質を統一するために再調整をして、宗道から舟で東京深川の正米市場に送り、利益を得、米穀小岩崎屋に変身し店も現在地に買い求めた。
(『筑波町史(下)』P298より)

・利根川改修で用いられた関東流
伊奈氏の治水技術は、「関東流」と呼ばれ、「川瀬は一里四十八曲がり」という蛇行を活かし、洪水のときは蛇行したところから水をあふれさせ、逃がした。
たとえば、堤防を少し低くして増水した水を逃がす「乗越(のりこし)堤」、そこを超えてきた水を溜める「流作(りゅうさく)場」など。氾濫した土砂により、新田開発を行うなど、自然の節理をうまく利用し、ある程度の洪水は最初から予定に入れた工法で、平野部の勾配の緩やかな河川に用いられた。
江戸後期、河川をまっすぐにして管理する「紀伊流」が採り入れられるまでの技術とされる。

・東遷がもたらした洪水と水郷の景観
利根川の東遷でひとつ指摘しなくてはならないのは、利根川下流部の変化だ。

東京湾に流れ込んでいた利根川や荒川の流れを替えることで、江戸市中は洪水の心配から解放されたが、逆に、利根川下流の低地帯は上流部から運ばれた土砂が堆積するようになり、川幅は狭くなった。
上流から運ばれる土砂に火山灰も含まれた。江戸期は浅間山や富士山が噴火し、その降灰が川に流れ込むことでも川底を浅くした。
これらのことから利根川下流部は、常に洪水が発生するようになった。

また、湖水の機能、景観が大きく変わった。
中世に大きな入り江が入り組んでいた「流海」は、利根川という大河川と霞ヶ浦という汽水湖に変わった。いわゆる水郷地帯だ。
上流から運ばれる土砂は、それを定期的に浚わなければならなかった。でないと、川底はすぐに泥で溜まり、川幅が狭くなる。それは、水害の招くことになる。

利根川下流の農民にとって、定期的に底の泥を掬う「洲浚(すざら)い」は欠かせない年中行事となった。
ただ、副産物もあった。その泥をマコモなどの上に載せる水田は、浮田と呼ばれた。
浮田は、隠田で税の対象外というお目こぼしの対象にもなり、農民には良い収入源となった。

浅い川底の利根川下流部の洪水の特徴は、上流部で降った支流の雨が本流に集まり、傾斜の緩い下流部で、海に流れずに逆流しもたらし、大水害をもたらす。
洪水対策として、ときに、大がかりな「水行直し」を行ったが、利根川下流部の治水工事は、第二次世界大戦前までの大きな課題で、資金と時間、人手がそこに費やされた。

水郷情緒として知られる独特な水路はこの時に誕生した。
浮田の間のアシやマコモの水草の間に設けられた水路、エマ(江間、エンマ)だ。エマを行き来するには、舟底が浅い「笹舟(サッパ)」が欠かせなかった。サッパは女性でも操れなくては一人前とはいえなかった。

 ⑤利根川水系の一部として管理される時代=130年前~

明治政府は、西欧列強に追いつくことを目標に、様々な近代化、「富国強兵」を図った。
河川の土木技術においても、ほかの産業と同じく、御雇い外国人による近代技術が導入された。

利根川は、明治19(1886)年、オランダ人技師、ムンデルにより、利根川改修事業を開始。上流から中流、下流にいたるまで「利根川水系」として各所で計測した水量を基に、水系全体として管理することを目標にした治水計画が立てられた。
この時、利根川の水位は、江戸川の水面を基準点にYPが決められた。
YPは、Yedogawa Peilの略で、Peilはオランダ語で「水準線」あるいは「基準」を意味する。江戸川堀江の水量標の0を基準として、江戸川、利根川、那珂川等の水位の基準で、いまも利根川水位としてYPが用いられている。

利根川改修事業は、明治33(1900)年から第1期工事が始まった。
ただし、治水工事が始まったからといって、洪水が防げたわけではない。

たとえば、
・明治43(1910)年の台風
・昭和10(1935)年の前線
・昭和13(1938)年の台風
のときは、利根川水系で洪水が発生した。
この時期の台風による被害は、利根川水系に限らず、台風の通り道で暴風雨による被害が頻発していたが……。
上記で明治43(1910)年の台風は、2つの台風が前後して襲来したことで、各地で被害が甚大となった。利根川水系の中~下流域、霞ヶ浦まで関東平野一面に洪水が及んだといわれる。

上記の洪水は大きく以下の2つに分けられる。
・山地性洪水=上流部に降った雨が原因で下流で洪水が発生
→明治43年、昭和10年
・平地性洪水=下流部に降った雨が原因で下流で洪水が発生
→昭和13年

コンクリート護岸で整備された鬼怒川堤防

コンクリート護岸で整備された鬼怒川堤防

・第二次世界大戦後の治水、利水事業
第二次世界大戦後、利根川水系は、治水事業に利水事業が目的に加わる。
東京都の水瓶としてダムが上流部に建設され、総合的な河川管理が行われるようになる。

霞ヶ浦沿岸は、湖岸全体でコンクリート護岸がなされ、水位の管理がなされるようになった。
それを可能とさせたのは、昭和38(1963)年に竣工した「常陸利根川水門」
勾配の緩やかな平地の河川である利根川の水が、霞ヶ浦に逆流すること防ぐ目的で設置されたもので、いわゆる「逆水門」だ。

利根川水系は、上流から下流まで、過去の降雨とその最も高い水位や水量により、全体として河川管理が行われるようになった。
洪水対策として決められる堤防の水位は、「過去50年間に1度」の豪雨にも耐えられる高さと強度が保たれているが、それにより、繰り返し生じた洪水への警戒心が薄れ、川との距離が離れてしまったことが指摘されている。

平成27年関東・東北豪雨で鬼怒川の巨大な漂着物

平成27年関東・東北豪雨で鬼怒川に流れてきた巨大な漂着物

・災害の予知が難しい時代に必要なこと
今回の鬼怒川の豪雨は、「過去に記録のない豪雨」として気象庁から警報が出された。呼び掛けにかかわらず、常総市で堤防が決壊してしまった。
今後、地球温暖化による異常気象を災害の予測にどう組み入れるか、悩ましいところだ。そもそも、予測は可能なのだろうか?

2014年の広島市豪雨災害をもたらした「平成26年8月豪雨」、2015年の鬼怒川堤防決壊をもたらした「平成27年9月関東・東北豪雨」と、「過去に記録のない豪雨」が2年続いてしまった。そして、今後も発生する可能性はある。
50年に1度の雨を想定した河川管理の基準が問い直されなければならない。

リスク管理という視点から最悪の事態を想定することは、重要だ。
とくに、国の重要な機能が集中する東京を中心とした首都圏において、内閣府の中央防災会議
・マグニチュード7クラスの地震が発生する可能性は30年以内に70%程度
と発表している。南関東で200~300年間隔に数回発生することを想定しているが、100年単位での地球規模の変化だ。

一方、気象庁をはじめ地球温暖化による異常気象は、「30年に1度の気象現象」を指すが、気象庁は、2015年3月の「異常気象レポート2014」で、「異常気象はもはやまれでなない」とした。
異常気象は、19世紀の産業革命以降、人間の経済活動が原因で生じている現象で、人類が引き起こした1000年単位の地球の変化だ。

100年単位での地震、1000年単位での気象の災害が、たまたま重なった場合、どうなるのだろうか?
どんなに予知技術が進んだところで、自然を知り尽くすことに限界がある。まして、予測不能な地球の変化は、そのXデーは決められない。

鬼怒川へと流れ込む用水

鬼怒川へと流れ込む用水

たとえば、以下の2つの問いの答えは?
・巨大な地震でも絶対破壊されない堅牢な砦は必要なのだろうか?
・蝶1匹の羽ばたきで様相を変える気象現象のすべてを予知システムは必要だろうか?

東日本大震災で、福島第一原始力発電所が事故を起こしたときに、科学者の多くは「想定外」と述べた。人類の知に限界があることを示している。堅牢な砦や、すべての予知システムにあまり頼り過ぎることは危うい。

もちろん科学知による予知や科学技術による制御システムを否定するつもりはない。
ギリシャ神話は、先見という名のプロメテウスが、後悔という名のエピメテウスにゼウスから盗んだ火を贈った。その火を用いて、エピメテウスにの末裔(まつえい)、すなわち人類は、文明を築き上げてきた。後悔を宿命とする人類にとって、行きすぎた先見は身を滅ぼす原因であり、度をこした知への欲求は奢りともいえる。
科学知に頼り過ぎることは、人間の五感を通した自然を読み取る機能が衰えさせる。
科学の知の限界と文明の進歩による被害の大きさを指摘していたのは、物理学者の寺田寅彦だ。

 それで、文明が進むほど天災による損害の程度も累進する傾向があるという事実を充分に自覚して、そして平生からそれに対する防御策を講じなければならないはずであるのに、それがいっこうにできていないのはどういうわけであるか。そのおもなる原因は、畢竟(ひっきょう)そういう天災がきわめてまれにしか起こらないで、ちょうど人間が前車の顛覆(てんぷく)を忘れたころにそろそろ後車を引き出すようになるからであろう。
しかし昔の人間は過去の経験を大切に保存し蓄積してその教えにたよることがはなはだ忠実であった。
『天災と国防』より(青空文庫、昭和9(1931)年)、イタリックは筆者

「文明が進むほど天災による損害の程度も累進する」という寺田寅彦の指摘は、理論だけでなく体験として培った科学者としての貴重な知だ。
鬼怒川の流路の変更を振り返るこからいま学ぶとすれば、いま一度、自然に対する接し方をより謙虚にすべしということのように思える。

野末たく二(結エディット)

以下、参考になりそうなリンク先です。ぜひご活用ください。
地学雑誌=東京地学協会が発行する雑誌、1898年の第1巻からアーカイブを公開
国土交通省関東地方整備局=利根川本流の上流部~中流部については利根川上流河川事務所、下流部については利根川下流河川事務所、鬼怒川については下館河川事務所
・利根川水系の川の歴史=千葉の県立博物館デジタルミュージアム、利根川東遷や高瀬船などの歴史は関宿城博物館、利根川下流域の水郷は大利根分館

  鬼怒川の流れ(結城市側から関城(筑西市)を臨む

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