暴れ川「鬼怒川」(1)-1万年単位の変遷

災害に遭遇すると、ひとは理不尽な思いにかられる。
「なぜ私だけが?」と。
災害は、それを招いた気象条件、その土地や村落・都市などの環境条件、発生した時間帯などさまざまな条件が重なる。だから、災害の予測は難しい。
とくに、地球温暖化による激しい気象現象は、短時間で災害が発生する傾向にある。

防災、減災といわれる。
災害から身を護るには、最後は身一つ、自らの判断を信じるしかないと思う。
そのために、身の回りにどんな危険、リスクがあるかを知る必要がある。
そして、そのリスクを一人だけのものとしないで、地域で共有すれば、いざという時のリスク回避につながる。ただ言うはやすく、行うは難しではあるが。

2015年9月10日(木)に、鬼怒川の下流、常総市で左岸の堤防が決壊した。
1週間以上が経ったいまも、洪水域が残り、被災した方たちは避難所で過ごし、まだまだ災害のまっただ中におられる。
こうした中で、いささか慎みに欠けるかもしれないが、防災の観点から鬼怒川の川の歴史についてまとめてみた。

鬼怒川三坂決壊場所(googleクライスレスポンスより)http://goo.gl/1bA9co

鬼怒川三坂決壊場所(googleクライスレスポンスより)

鬼怒川の流れの大まかな変遷

 鬼怒川は、栃木県から茨城県にかけて流れる利根川水系最大の河川で、全長176.7km。
栃木県の鬼怒沼を水源とする。
水源は群馬県との県境近くで、水源の山は福島県の帝釈山から延びる山並みに位置する。鬼怒川の上流部は、鬼怒川温泉があることから分かるように火山、日光・高原火山群がある。この火山群が後ほど、先史時代の鬼怒川の流れを突き止める決め手となる。

鬼怒川の流れは、過去に何度も変わっている。

特に、鬼怒川下流域で流路変更が多い。
その変更過程を2回にわたり見てみようというのが、本稿の狙いだ。

鬼怒川の流路変更は自然の力で変わったこともあれば、人が変えたこともある。
おおまかに茨城県内の流路変更をまとめると以下の5つに分けられる。
①今の桜川の辺りを流れ、深い谷を作った時代=2.9万年~2万年前
②今の小貝川~利根川低地の辺りを流れ、深い谷を作った時代=2万年~6000年前
③今の鬼怒川の流れとなって、砂泥で谷を埋めた時代=6,000年前~300年前
④鬼怒川が利根川とつなげられた時代=300年前~130年前
⑤利根川水系の一部として管理される時代=130年前~

このうち、①~③は自然による変化で、1万年から数千年の単位での変化。
④~⑤は、人工的な変化で、100年単位での変化。

 先史時代の鬼怒川の姿
①今の桜川の辺りを流れ、深い谷を作った時代
=2.9万年~2万年前

では、さっそく。

まず「今の桜川」の桜川は、茨城県の桜川市から、つくば市を経て、土浦市の霞ヶ浦へ到る流路で、距離約64㎞。筑波山の西側の麓を取り巻くように流れる。

鬼怒川は、先史時代の2.9万年前は桜川の流路を取っていた。
2.9万年前は、新生代第四紀の更新世の最終氷期、ヴェルム氷期。関東平野の海岸線は太平洋の沖側に後退していた。

このことを突き止めたのは、地形学者の池田宏さんだ。
昭和52(1977)年に池田さんが発表した論文「筑波台地周辺低地の地形発達-鬼怒川の流路変更と霞ヶ浦の成因」(『筑波の環境研究』、筑波大学筑波環境研究グループ、2巻、1977)は、川が時代ごとに流路を変えることを明らかにした。

筑波の環境研究_vol2

池田宏さんは、『筑波山目的別ガイド』(2007年)の「筑波山ジオツアー」でご登場いただいた縁で、地形の見方をいろいろご教示いただいている。
地形の背後にどのような歴史をたどって来たか。小さな現場の証拠を基に、ダイナミックな地球の歴史へと結び付ける構想力というか、想像力にいつも感心させられる。

その話の顛末は、『筑波山目的別ガイド』をご確認いただきたい。

•Ž†筑波山目的別ガイド

現在、桜川は鬼怒川の東方約20~30㎞を流れている。まさか、何万年も前とはいえ、何10㎞も東を鬼怒川が流れていたことが、どうして、それが分かるのだろう?

その証拠は、主に2つある。
・筑波台地と新治台地の間の桜川低地の広さは、桜川の流量では不可能で、より流量の大きな川でないと形成されないこと
・火山地帯の安山岩の砂礫が2.9万年前の桜川の地層にあることから、火山地帯に源流を持つ川がかつて流れていたこと

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まず、川のつくる平野と流量との関係について。

池田さんによれば、湿度の高い日本は、雨がたくさん降り、バクテリアなど動植物の分解者の活動が活発になり、豊かな土壌を生み出す。温暖な気候の下で、バイオ(生物)の力で生み出された「バイオマット」が山の斜面を覆い、山の斜面を強固にしている。
逆に、氷期は山の表面の木々が弱くなり、木の根で固められていた山の斜面は、もろくなり崩れやすくなる。生物の働きが衰える氷期の川は、とても元気。山の斜面を削り、岩や石といっしょに勢いよく流れる。

川が削ってできる谷や平地の幅は、川の水の流速や水量などで決まる。
それに基づくと、桜川の両側に広がる低地は

幅は2㎞あり、1/1000mの縦断勾配をもっている。
(「筑波台地周辺低地の地形発達」P105)

縦断勾配は、河川や山などの傾斜角度を指す。
1/1000mの縦断勾配は、水平方向1000mに対し、高さ1mの角度。1㎞で標高差1mなのだから、かなり緩やかであることが分かる。
そんな緩やかな桜川が、幅2㎞もの低地を作るわけがない。

次に、地層から発見された安山岩について。

池田さんは、桜川の土手の地層で、安山岩の礫(れき=やや大きめの石)を見つけた。

上から3番目の赤茶色の地層が古鬼怒川の砂礫層

上から3番目の赤茶色の地層が古鬼怒川の砂礫層

筑波山は、たぶんご存知かと思うが、火山でない。
だから安山岩は、筑波山のものではない。可能性として、日光・高原火山群に水源を持つ鬼怒川が浮かび上がるというわけだ。

池田さんは、安山岩の礫を含む砂礫層を「土浦礫層」とそれぞれ名付け、そこに含まれていた木片の炭素同位体測定(C14)してもらった結果、

「29,190+4,200~-2,180B.P.年である」ことが分かった。
(「筑波台地周辺低地の地形発達」P109)

2.9万年前の地球は氷期にあたる。
つまり、その時の川は、より流量の多い時代の元気な川で、なおかつ、火山の麓から安山岩を運んで来れる川が2.9万年前の桜川を流れていたことが分かり、その条件を満たしているのが、鬼怒川だった。

池田さんは、先史時代の鬼怒川を「古鬼怒川」と名付けた。

いまの桜川低地を流れていた古鬼怒川は、深く、広い谷を形成した。

霞ヶ浦の湖心付近のボーリング調査により古鬼怒川の礫層が確かめられ、古鬼怒川の流れは、霞ヶ浦の湖心まで及んでいたことが分かった。

古鬼怒川は、いまの霞ヶ浦の原型をかたちづくったことも突き止めた。
そのイメージ図が以下。

P61霞ヶ浦ができるまで図1(加工)

図は、「筑波台地周辺低地の地形発達」P110より。
池田さんが描いたものだ。実際は、モノクロだが、分かりやすいように古鬼怒川の流れと霞ヶ浦の谷を水色に着色した。

②今の小貝川から利根川低地の辺りを流れ、深い谷を作った時代
=2万年~6000年前

現在の小貝川は、栃木県那須鳥山市の小貝ヶ池を源流に茨城県利根町で利根川に合流している。水源から合流部まで約111.8㎞、ほぼ緩やかな勾配を流れる。

また、利根川低地とは、いまの茨城県と千葉県の境を流れる利根川下流部を指す。

古鬼怒川は、約2万年前に、流路を西側に変え、いまの小貝川から利根川下流部を流れていたという。

古鬼怒川の約2万年前の流路変更の原因は分かっていないが、約2万年前は氷期でも、気候がもっとも寒くなる時期で、最寒冷期と呼ばれる時期。この時期の霞ヶ浦の河口は現在より17㎞も東方で、海抜-100m付近にあった。

小貝川の両側に広がる低地は2~3㎞もあり、桜川低地同様、勾配や距離から見てより流量の多い川によって形成されたことが分かる。
実は、小貝川低地が鬼怒川により作られたことは、昭和32(1957)年に貝塚爽平氏が「関東平野北東部の洪積台地」(『地学雑誌』、66巻4号)で、地層の比較から鬼怒川地溝帯の形成過程から明らかにした。

小貝川の流路を流れていた約2万年前の古鬼怒川を、池田論文でたどっていく。
以下の文中の「海抜」は、いまの地面の海抜0mからの高さ(低さ)示す。

下妻で海抜1m、……、石下で-8m、水海道で-15m、谷和原では-26mに達する。
(「筑波台地周辺低地の地形発達」P109)

鬼怒川の中流の川島付近(茨城県筑西市)の海抜が35mとすると、最下流の谷和原(茨城県つくばみらい市)までの距離は約35㎞。この間に、古鬼怒川の川底の高さが61mも低くなる。氷期の最大の時の古鬼怒川は、かなり急な勾配があった急流であることが見えてくる。

この時期の古鬼怒川の流路と霞ヶ浦周辺の地形図が以下。

P61霞ヶ浦ができるまで図2(加工)
図は、「筑波台地周辺低地の地形発達」P110より、一部水色に着色。
2.9万年前より、霞ヶ浦、古鬼怒川の谷はより深くなる。
霞ヶ浦ではかつて古鬼怒川が運んだ安山岩の砂礫層(土浦礫層)は段丘化する。

③今の鬼怒川の流れとなって、砂泥で谷を埋めた時代
=6,000年前~300年前

約6,000年前、古鬼怒川の流路はさらに西に移動し、ほぼいまの鬼怒川の流路になる。
もっとも気温の下がった氷期の2万年前から、少しずつ気温が上がっていく。
太平洋のはるか100㎞まで後退していた海水面は少しずつ陸側に押し寄せる。
この頃の海水面の上昇は、1.9万年前から年間で1~2㎝ずつ上昇したという。そして、縄文時代の約7,000年前に海面が一番高くなる「縄文海進」を迎える。

気候が温暖になるに連れ、古鬼怒川の作った谷は、少しずつ砂泥で埋まっていく。
それはほぼいまの鬼怒川の姿に似て、比較的勾配が急な上流~中流から土砂が運ばれ、緩やかな下流部にその土砂を置いていく。

中流の川島(海抜35m)付近までは縦断勾配が大きく、その上を流れる現在の鬼怒川河道の幅は大きく、河床は砂礫で構成され、河床には多数の砂礫層が形成される。
(「筑波台地周辺低地の地形発達」P105)

そして、勾配が緩やかになった川島より下流部は、

河床は砂となり。河道幅が小さくなるとともに、河道の深さが急増する。
(「筑波台地周辺低地の地形発達」P105)

勾配は、川島(筑西市)を起点に変わり、川島より上流の縦断勾配は30.~2.0/1,000mに対し、石下(常総市)で0.4/1,000m、さらに守谷市辺りで0.1/1,000mとほとんど勾配がなくなる。
縄文海進期、気候が温暖になると川の運ぶ力は、氷期の元気いっぱいの川からおとなしい川になる。川の傾斜が緩やかになると、氷期にできた谷が砂や泥で埋まり始めると、そこに池や谷が生まれる。それを示したのが下図だ。

P61霞ヶ浦ができるまで図3(加工)

図は、「筑波台地周辺低地の地形発達」P110より、一部、水色に着色。

小貝川・利根川低地の谷は、鬼怒川からの土砂によって埋積されて埋積谷となり、支谷は閉塞されて。飯沼や手賀沼などの池沼が生じた。下妻以上の小貝川低地も、鬼怒川による土砂堆積物の影響を受けて池沼化した。
(「筑波台地周辺低地の地形発達」P111)

古鬼怒川の中流から下流にかけて、低地や池沼が形成されていくなかで、最下流部は大きな入り江が形成されていた。

古鬼怒川の最下流部は、いまの鬼怒川と小貝川が合流し、常陸川と呼ばれていたが、その下流が流れ込む河口から入江一帯は、中世の時代に「香取の流海(ながれうみ)」と呼ばれていた。

香取の流海には、「海夫(かいふ)」と呼ばれた人たちが、香取神宮に獲れた魚介を貢ぐことで護られながら、時に武士団と渡り合ったことが知られる。それは、常日頃は漁民であり、運搬を担う水夫(かと)であり、そして、ある時は、武器を取って戦う武士にもなる多用な顔を持つ。
歴史家の網野善彦は、香取の流れ海一帯の「海夫」の研究を行い、中世の日本列島から時に朝鮮半島済州島にいたるまで同じような「海民」がいたことを明らかにした。

中世流海の入り江の沿岸に「津」という港が形成されていた。
そして、時代が下り江戸時代初期、霞ヶ浦の湖岸の「四十八津」に、津を代表する「津頭」が存在し、合議制で、漁期や網目の大きさを決め、魚資源を取りすぎないようにしていたことが知られる。
海夫が生き生きと活躍していた海の時代は、徳川幕府が成立し、関東平野一帯で河川改修の瀬替えが行われるようになると、その姿を一変させる。
次回はそのあたりを見ていくことにしよう。

野末たく二(結エディット)

1-IMG_1752

2015年9月11日に撮影した桜川支流の逆川。 土手の草が寐ているところまで水が来た

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