花野をそぞろ歩き

俳句をやり始めた頃、すっと体に入ってきた季語が「花野」だった。
どこか優雅な響きがあって、でも、絵空事ではない、実体を持ったことばとして。
それは、関東平野に来て、広大な花野の風景を見たからだ。

まず茨城県に来て、川の大きさに驚いた。
桜川や小貝川、鬼怒川、そして坂東太郎と呼ばれた利根川などの芒が生えた川原を歩いて、宮沢賢治の「風の又三郎」の世界が眼前に広がった。

どっどど どどうど どどうど どどう
青いくるみも吹きとばせ
すっぱいかりんも吹きとばせ
どっどど どどうど どどうど どどう

宮沢賢治『風の又三郎』より

このフレーズ、花野ということばは出てこないけど花野がいい。

私の育った静岡県西部には日本三大急流の天竜川があるが、又三郎が降りてくるような花野は広がっていなかった。

桜川のススキ原

桜川のススキ原

花野のイメージ

お盆を過ぎると日が短くなり、いやおうなく黄昏(たそ・かれ)を意識する。
でも暑さは残っていて、なかなか秋が実感できない。
稲刈りが終わり、秋が深まってゆくとススキ(芒)が一面に花を咲かせる。

ススキの花といってもピンとこないかもしれない。
イネ科なので、イネ(稲)の花と同じく先っぽに小さな蘂(しべ)を垂らす。それが房になるので、花を咲かせたススキ原は見事。
花の咲いた芒原が秋の斜めの光に輝く様は、なんとも言えない。

輝きは芒のなかにゐる私

あまりうぬぼれないけど、芒の光る中にいると、小さな自分などどうでも良くなる。自分がこの世の中で一番なんだとうぬぼれた時の私の拙句。

花野に不可欠なのはススキだ。ススキは屋根の材料で、ほかにヨシ(葦=アシ)などを「萱(かや)」という。荒れた場所に自然に生えるように思われているが、「萱場」は、屋根の材料のススキやヨシ(葦=アシ)を採るための広大な原で、耕作放棄された現代の休耕田ではない。

花野へは蒸気船で行かうかと

旧かな遣いの表記なので、現代表記だと「行こうかと」。
「花野へ蒸気船に乗って行こうぜ!」という意味で、20年くらい前の私の拙句。
このころ、3年間ほど、霞ヶ浦の一番下流の町へ、歴史の編集の仕事で通った。
つくばから、湖岸沿いを通う道は変化があって楽しかった。霞ヶ浦の水運史などの歴史を調べているうちに、明治から大正時代に「日通丸」という蒸気船が東京と土浦を結んでいたことを知った。

いまの茨城県稲敷市の和田岬から妙技の鼻あたりのどこまでも続く萱場を通ると、ほんと風の又三郎が出てくるんではなかろうかと思った。
そんなことを想ってある日、ふと口をついて出たのが上の句だ。

この句を出したとき、空想の句ととられた。つまりリアリティーがないと。
蒸気船でいく霞ヶ浦の船旅。じゃあ、今日は、浮島あたりで、花野に戯れながら遊んでみようか……、なんてね。乗ってみたかった。
俳句の良さは、時空を超えられること。
正岡子規の「眼前直観」という宣伝文句(キャッチフレーズ)を、あまり過信しないほうがいい。

冬枯れの妙技の鼻

冬枯れの妙技の鼻

季語「花野」のプロファイル

「花野」という季語は、いつ頃から使われるようになったのだろう?
こんな時に利用しているのが『図説俳句大歳時記』(角川書店)だ。
新年、春、夏、秋、冬の5巻からなり、昭和39(1964)年に刊行された。
大歳時記と名乗るように、あらゆる視点から俳句が背負ってきた季語の履歴を詳らかにしている。

歳時記は、季語の説明と季語を用いた例句からなるが、『図説俳句歳時記』は、俳人はもとより、当時の自然科学者、民俗学者などを執筆陣に加えている。
たとえば、天文学の野尻抱影、植物学の本田正次、鳥類学の中西梧堂、昆虫学の大町文衛(大町桂月の次男で、コオロギ博士)、民俗学の五来重、宮本常一などなど当時の日本の叡智を集めたといっても過言でない。
これは、俳句を俳句に携わる者だけで、狭く完結する現代の歳時記にはない壮大希有な試みで、後にも先にもない空前絶後の試みだ。角川書店の角川源義の人脈と懐の広さが分かる。

「図説」というだけに、写真を多用している。
モノクロ主体だが、陰影の濃い写真は四季の彩りを感じさせる。とくに巻頭のグラビアは、圧巻だ。孔版のグラビア印刷で、いまとなってはかなり贅沢な作りだ。

また微笑ましのは、ソノシートと呼ばれるレコードが綴じ込まれている点。そこにどんな四季の音が入っているのか、再現できないのが口惜しい。ソノシートは、雑誌の付録に多用され、当時として目を引いたのだろう。

『図説俳句大歳時記』 (角川書店、昭和39年)の 巻頭グラビア

『図説俳句大歳時記』(角川書店、昭和39年)の巻頭グラビア

『図説俳句大歳時記(秋)』(角川書店、昭和39年)の外箱と付録のソノシート

『図説俳句大歳時記(秋)』 の外箱と付録のソノシート

『図説俳句歳時記』で特筆すべきは、尾形仂(おがた・つとむ)の季語の「考証」だ。
俳句ということばが使われるようになったのは、明治以降。
江戸期以前は、「俳諧連歌」の発句。
連歌で用いる季題があまりにも形式的になり窮屈になった。
もっと広く自由に使おうという革新が室町期、荒木田守武により行われた。

そして、季語は江戸期になると爆発的に増えた。
背景には、日本独特の博物学とも呼ぶべき学問が開花したこと、俳諧連歌を嗜める町民、豪農などが形成されたことなどがある。

尾形は、俳諧連歌から連綿と連なる季語の来歴を古文書から拾い出し、実にコンパクトに記述している。
尾形が『図説俳句歳時記』で試みた季語の「考証」は、後に『近世前期歳時記十三種 本文集成並びに総合索引』『近世後期歳時記 本文集成並びに総合索引』に結実する(いずれも勉誠出版)。

ムベの実

ムベの実

尾形の季語の履歴(プロファイル)は、日本人が連歌から俳諧連歌とことばによって受け継いできたことばの背後にある意識の変遷を知る上で貴重だ。
また、季語をデータベースとしてとらえ、分析することで時代ごとのひとびとの潜在意識が浮かびあがる。たとえば、花野という季語ひとつとっても、その対象としていた自然の生態が浮かび上がる。

尾形の「考証」によれば、いま取り上げている「花野」が初めて出てくるのは、江戸時代の初期の歌論書で、秋の季題。

天保4(1842)年の『四季名寄』の花野として具体的な地名が上がっている。

麻布平(広)尾原花野
角田川堤堂(豊)島神谷辺花野

平尾は「広尾」、「堂島」は「豊島」と思われるので( )で補った。

「麻布広尾原」は、江戸時代の下豊原村、下渋谷村の入会(いりあい)地。
笄(こうがい)川が渋谷川とそ合流する辺り、一帯は、かつては大広尾と呼ばれていて、草の生い茂る野原だった。
入会地は、村落の共有地で、肥料の原料とする草などを刈った。また、低木などが生えていて、それを薪にした。
入会は、英語でコモンズ。だれかのものでないけど、だれかれが一定のルールで管理することで成り立つ。

『江戸~東京重ね地図』(エーピーピーカンパニー、平成13年)より「広尾原」

『江戸~東京重ね地図』(エーピーピーカンパニー、平成13年)より「広尾原」

筑波山で入会について聞いた話で、印象深かったのが、
「刈る順番なんか決めなかった。欲しい者が欲しいだけ草を刈ったり、木を伐った。怠ける者は損するんだからそれでいいんだ。とくに問題はなかった」
ということば。もちろん、だからといて裸地になるまで刈り尽くすことはしないし、ほどほどにという暗黙のルールがあったようだ。

牛久沼のアシ(ヨシ)原

牛久沼のアシ(ヨシ)原

もうひとつの花野の「角田川堤」は、「墨田川堤」で、いまの墨田区白髭橋の東側一帯の堤防を指す。
そして、それに続く「豊島神谷」は、いまも北区に神谷の地名が残るので、その辺りと思われる。
豊島神谷は、隅田川が大きく曲がり、荒川と合流する手前あたり。おそらく川の氾濫原だろう。

隅田堤も豊島神谷のいずれも、川に続く草原や葦原だ。

『江戸~東京重ね地図』(エーピーピーカンパニー、平成13年)より「墨田堤」)

『江戸~東京重ね地図』より「墨田堤」)

『江戸~東京重ね地図』より「豊島神谷」村)

『江戸~東京重ね地図』より「豊島神谷」村)

江戸後期の『四季名寄』の指す花野の場所から、江戸の都市のすぐ隣に、花野という広大な草原や萱場、葦原があることが分かる。
花野の場所を見ることで、江戸という都市の中にパッチ状に組み込まれた自然域があったことが分かる。それらは、ある意図を持って作られたのだろう。

例えば、江戸の華と呼ばれた火事を食い止める防火帯であり、都市下水を浄化する植生帯などの役目を果たしていたことなどが想像出来る。また、池波正太郎から小説によく登場させている罪を犯した人物が潜んだりする逃げ場にもなっている。こうした緩衝地帯が、美しい花野と名付けたセンスは素晴らしいと思う。

嘉永3(1850)年に出た『増補 俳諧歳時記栞草』の「花野」は、以下のように説明する。

千草の花の野に咲き乱れたるをいふ也
野の花といふときは、花、体(たい)となりて野は用(よう)たり
花野といふときは、野、体となりて花用たり
心得べし

「野の花」という時は、「花」が主体で「野」は従。逆に「花野」となると「野」が主体で「花」は従になる。
ことばをひっくり返しただけで、詠む対象とそこから広がるイメージが違ってくる。
花野は、秋に何種類もの花が咲き乱れた野の景の全体を意識していたことが分かる。

『図説俳句大歳時(秋)』 (角川書店、昭和39年)の巻頭グラビア「芒の光(長野県戸隠)」

『図説俳句大歳時(秋)』(角川書店、昭和39年)の巻頭グラビア「芒の光(長野県戸隠)」

「花野」の例句-江戸の俳諧より

江戸時代は、花野でどんな句を詠んでいたのだろうか?

山伏の火を切りこぼす花野かな 野坡

野坡は蕉門十哲といわれる芭蕉の高名な門人。

山伏が修業の時に、ぱっと火が付いた瞬間に、火起こしに用いた火縄かなんかを捨てる、その先に広がる広大な花野。
もちろん、「切りこぼす」は山伏の経文の「切り結ぶ」が言外にあり、パロディ。おかしみがある。
手に火の粉がついて「あっち、ち」なんて言ったのかな?

次の句

二里といひ一里ともいふ花野かな 太祇

太祇は蕪村と交流のあった俳人。一里は約4キロ。この句は正確な距離を示しているというより一面広大な花野の広さを「二里」「一里」で示している。

交流のあった蕪村の花野の句に以下がある。

広道へ出て日の高き花野かな 蕪村

花野の広大な野の中を通じる一本道、そこに来て日の高いことを知った。
ではそれまでは? 町中の雑木や竹藪などの狭く暗い道を来ていたのだろうか?
陰影の強い、広大な景が見えてくる。

蕪村の道を歩く名句で同じ秋の句に

月天心貧しき村を通りけり

がある。五七五の短い中に凝縮された無限の時間。こんな光景、長回しの映画で見たいな。

クズの花

クズの花

「花野」の例句ー明治以降の俳句より

時代が下って明治時代。花野は都市と背中合わせの草原や葦原から、ずっと遠くの高原へと移る。

浅間山前掛山と花野ゆく 高浜虚子

高浜虚子は、『ホトトギス』の主宰者として俳壇ばかりか、明治、大正、昭和の文壇、財界にまで影響を及ぼした。
高山植物などを季語に採り入れるなど江戸期までの俳諧の季語をぐんと広げた(かなり乱暴で恣意的ではあったが)。

上記の句意は平明だ。
「浅間山を見ながら、前掛山などを花野を巡って歩いた」というのだが、江戸時代の野坡の「山伏」や蕪村の「日の高き」に比べたら広がりがない、まあ月並み句か。

高山の中に日暮るる花野かな 大須賀乙字

華厳見し雄心覚めぬ花野行く 松本たかし

乙字の「高山」は、飛騨高山ではなく、高い山の意味かと思う。遠くに高い山がそびえているそこは日が当たっているけど、麓の花野は暮れていくという情景。

たかしの句は、華厳の滝で、日光。滝のすごさに高ぶった気持ちを静めるために花野に行ったという句。戦場ヶ原か? たかしは虚子門で、能の素養があった。

虚子以降、花野はなぜか浅間山あたりの高原のイメージが強くなった。ヨーロッパの牧歌的な、アルプスなんかのイメージを意図的に広めようとことが分かる。
ここに時代の大きな裂け目がある。

翻って現代。「花野」でどんなイメージを抱くだろう?
コスモスなんかの咲き乱れる風景を思い描くだろうか?
あるいはコキアが一面に咲き乱れる公園の風景?
ただ、花野は、彩りがそんなに豊かでない方がいいと思う。
ハギやミズヒキ、ワレモコウ、ノギクなどの彩りが、ススキなどに隠れたそこはかなさ。

季語のプロファイルを見てくると、一面ピンクや黄のメリハリのある広大な風景は、あまりにも唐突な感じがする。これは偏見だろうか?

(文と句 結エディット=野末たく二)

ススキの花

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