「みるく世」を歌い・継ぐ

沖縄全戦没追悼式に詠まれた詩

平成27年6月23日(火)、沖縄県糸満市で開催された「沖縄全戦没者追悼式」で、17歳の念捷(ちねん・まさる)さんが詩を朗読した。

私は、翌日の新聞でその全文を目にした。
タイトルは「みるく世がやゆら」。
詩は次のように始まる。

みるく世がやゆら平和を願った
古(いにしえ)の琉球人が詠んだ琉歌(りゅうか)が
私へ訴える
……(以下略)

新聞などは「みるく世」を「平和」と訳した。おそらく、沖縄県とゆかりのない者は、なぜ「みるく世」が「平和」なのか意味が採れないと思う。
しかし私はなるほどとうなづき、詩の全文を改めて熟読した。
インターネットで検索をかけ、詩は、沖縄平和記念資料館が主催する「児童生徒平和メッセージ」の平成27年の詩の部で、高等学校最優秀賞に選ばれた作品であることを知った。

平成27年「児童生徒平和メッセージ」のポスター

平成27年「児童生徒平和メッセージ」のポスター


ここで全編は掲載しないが、詩は、軍人節を何度も口ずさむ「祖父の姉」への思いをまとめている。
知念さんの「祖父の姉」は、第二次世界大戦の沖縄戦で若き夫を亡くし、それからずっと独身を通し、90歳のいまは痴呆症で寝たきりになっている。
70年前に青春を奪った戦争の記憶を「漆黒の闇へと消えゆく前に」、心に留めようという思いを一片の叙事詩として詠んだ。
伝統的な琉歌と現代詩(本土の標準語)の重層的な構造、慎重に選んだであろうことばの一語一語が、詩の題名にもなった「みるく世がやゆら」の繰り返しとともに印象強く、戦争を伝える思いの強さが伝わってくる。

詩の第1節に琉歌の「みるく世」が出てくる。

戦世(いくさよ)や済(し)まち
みるく世(よ)ややがて
嘆(なじ)くなよ臣下 命(ぬち)ど宝

琉歌とされるこのフレーズは、明治の維新政府が、琉球王朝を鹿児島県の一部に編入する「琉球処分」を迫った折に、琉球国第19代国王、尚泰が民衆に伝えた思いを劇にした時の台詞といわれる。

「戦は終わった、やがてみるく世がやってくるから嘆くな臣下よ、命こそ宝、だから堪え忍んで、暮らそう」という意味だろう。

こうして見ると、詩の題名ともなり、繰り返される「みるく世」は、17歳の知念さんの詩を生み出す核となっていることが分かる。いったい「みるく世」とはどのような世界か?

最初に断っておく。私はいまだ沖縄の地を踏んでいない(いつかは行きたいと念じてはいるが)。以降は、私の観念を基づいている。だからリアリティーは希薄かもしれない。

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全国津々浦々の「みるく世」の世界観

「みるく世」は、「ミロク世」、つまり、「弥勒菩薩の世」を意味する。
仏教で弥勒菩薩は、釈迦の入滅後、56億7000万年の後に、出現して衆生を救済すると信じられてきた。この「弥勒の下生は、明らかに仏教におけるメシア信仰の表現である」という視点で、民俗学の立場で宮田登が書いたのが『ミロク信仰の研究 新訂版』(未来社)だ。

宮田登の「ミロク信仰」の立ち位置は次のようだった。

「ミロク信仰」は、仏教に内包された一種のメシア思想である。インドに成立した弥勒信仰は、仏教の東漸に伴ない、東南アジア・中国・朝鮮を経て日本へ伝播した。伝播の過程で各国各民族の受容の仕方には差があり、それはミロク信仰即メシア待望思想の発現形態の民族的精神構造にかかわる問題としてとらえられるであろう。
<『ミロク信仰の研究 新訂版』P15>

「ミクロ信仰即待望論の発現形態」として現れたのは、たとえば、幕末から明治維新にかけて、世直しとして伊勢神宮へと大挙して押し寄せる「エエジャナイカ」が挙げられる。また、意外かもしれないが、江戸期のミロク信仰の発現形態として、富士講がある。
江戸の街中のそちこちに作られたミニ富士山は、ミロク世の出現を願う庶民の熱烈な思いを形にしたものだった。

沖縄のミロク信仰は、たとえば、

さまざまな変遷に富むが、とりわけ八重山に濃厚に分布する豊年祭、節祭、結願において、先頭に立つミロクの練りと踊りの形態から推察して、沖縄に伝統的な来訪神の一形式であるという説明が妥当とされている。……(中略)……。
行列の最後にミロクが出るのである。このミロクは沖縄でよく見かけるもので、眼鼻立ちの巨大なミロク面をかぶり、腹を大きくふくらませ、一二、三歳の女子で、二人ずつ組となり、最初の二人はミロクの長い袖をとり、次のは団扇であおいでいる。次のは綾を両手に持ち、次の二人が籠に粟穂と稲穂など五穀の種子を入れて盛っている。
<『ミロク信仰の研究 新訂版』P269~270>

八重山竹富島のミロク面 (宮田登『ミロク信仰の研究 新版』、口絵より)

八重山竹富島のミロク面
(宮田登『ミロク信仰の研究 新訂版』、口絵より)

この行列で歌われるミロク節は

大国ヌ弥勒(ミリク)
バガ島ニイモチ
今年カラバガ島
世果報デムヌ
<『ミロク信仰の研究 新訂版』P273>

と続く。
おおよその意味は、「大国の弥勒は、我が島の主、今年の我が島は世果報だろう」となるか。宮田は、ミロクがもたらす「世果報」の「世は」、穀物の「作柄」を示し、「世果報」は、豊年満作の世を意味するという。祭の行列にミロクが出現することで、豊かな実り、豊年満作が約束される。

沖縄のミロク信仰は、知念さんの詩にあるような「古代」から続くものでない。たとえば八重山の登野城のミロクは、寛政3年(1791)に、大浜用倫が暴風雨に遭い漂着した安南、いまのベトナムのミロク祭を見て、その一向が持ち帰ったものとされる。
沖縄の島々に仏教が伝わり、ミロク信仰が受け入れられる土壌として、ひとつにニライカナイの世界観があった。

豊年祭に出現する弥勒は、赤また、黒また、まゆんがなし、あんがまなどと同系列の、ニライカナイから訪れ、民に幸運をもたらす神と解されてきた。
<『ミロク信仰の研究 新訂版』P78>

ニライカナイを、独自の沖縄学を打ち立てた外間守善は、以下のように定義づける。

ニライは、「海の彼方にある根所(根の国)」である。ニライの語源は、ニ(根)・ラ(地理的空間をあらわす接尾後)・イ(方位をあらわす接尾語)で、「根所方」の意味であると思われる。……(中略)……。文化史的な視点を添えて仮設的に整理してみると、「祖先神のまします根所」が原義であり、「根所」に安らぎを求めようとすることから、「死者の魂の行く所」という観念や、生きている人に「幸福、豊穣をもたらすセヂ(霊力)の源泉地」という観念が生まれたものと考えられる。
『沖縄の歴史と文化』中公新書、P154>

外間守善は、『沖縄の歴史と文化』で、「日本の一地方文化としてではなく、太平洋文化圏の中で広くとらえなおす」という観点から沖縄の通史を記述し、沖縄文化については、大陸、南洋、朝鮮半島、そして日本本土など多方面からの文化を吸収して成り立つを重層的な「複合文化と位置づける。
複合文化としてとらえる外間の独壇は、「おもろさうし」をはじめとした沖縄の島嶼が歌い・継いできた詩の文化構造を明らかにした点だろう。
ニライカナイは、沖縄の島嶼に暮らすひとびとにとって、過去の世界観でなく、歌い・継いできたことにより、いまも具体的にイメージできる世界観といえる。

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歌い・継ぐ歴史

歴史学が対象とする歴史は、文字に書き記された文書であった。網野善彦などの試みで、一時的に考古学、民俗学、民族学などの多領域間の共有化がはかられ、ブレイクスルーが期待されたが、残念ながら、大きなうねりとならず、歴史学は再び書き・記された文書の実証主義の狭隘へと戻りつつあるように見える。

沖縄に文字がもたらされ、文書としての歴史が生まれるのは、大陸や日本本土に対し、遅れた。

沖縄語と文字との接触を十三世紀頃、文字による表記法の確立を十五世紀末頃、そして十五、六世紀に文献時代に入るというとらえ方である。
……(中略)。
十三世紀中葉、一二六五年に禅鑑という僧侶が日本から仏教ともに文字を沖縄にもたらすことになる。これが沖縄語と文字との初めての接触であるのだが、実際に文字を活用するようになるのはそれから約百年くらい経ってからで、一三七二年に沖縄から初めて中国に進貢したときの表文は科斗文(かともん)であったと伝えられている。
<『沖縄の歴史と文化』、P95~97>

文字による書き・記された世界のみが歴史であるという背後に、文字登場以前の歴史は劣ったものという無意識の進化論が根ざしている。しかし、書き・記す必要のない文化、つまり歌い・継ぐことでこと足りた文化の持つ豊かな世界は、必ずしも劣ると決めつける必然はない。むしろ、歌い・継いできたことがらを、書き・記した段階で、こぼれ落ちるものは多々ある。
歌い・継ぐ世界観の豊かさを知っていたひとたち(民族)は、あえて書き・記さなかったのでないか。そのことで守り、伝えられることの豊かさを分からせてくれたのが、映画「スケッチ・オブ・ミャーク」だった。

映画「スケッチ・オブ・ミャーク」より

映画「スケッチ・オブ・ミャーク」より

この映画を見た印象は、以下にノートとしてまとめてあるので、詳しくはそちらをご一読いただくとして、映画は宮古島の歌を丹念に描いたドキュメントで、冒頭は、久保田麻琴というミュージシャンが熊野をギターを奏でながら歩くシーンから始まる。
映画では数々の神詩が生まれる場が描かれているが、神歌は、くじで選ばれる神司(かんつかさ)の女性が、「御嶽(うたきー)」で歌う。そこに行けば、必ず祖霊神に出会える。
想像していたのは、たとえば下北半島のイタコのように、神懸かりとなる姿だったが、神司を務めた女性が、亡くなった父と出会ったことを告げる場面は、
「歌うときに父がいたさー。どこにって? 父は亡くなっているから私の肩のうえだったり、後ろやどこにでも、父がいっしょにいるのさー」
と、とてもたんたんと述懐していたのが印象的だった。

たとえば、民俗学などの記述によるニライカナイの世界は、異界と考えがちだが、歌い・継がれた世界では異界ではなく、ごく近い世界、ときに磯の岩であり、真水の湧き出す泉や巨木の根本など日常との世界と常につながり、歌うことで見える世界だ。

中世から近世にかけて沖縄に仏教が入った時(そのルートや沖縄諸島の北部、南部で時期やルートに諸説ある)、ミロクを受け入れられたのは、仏教のもたらした仏という神々が、ニライカナイからやってきた祖霊神の漂着と素直に見ることができたからだろう。それは、なにも沖縄の島嶼に限ったことでなく、太平洋に臨んだ日本列島では、漂着神としてミロクを受け入れた痕跡をそこここに認めることができる。

ニライカナイの世界観が、沖縄だけのものでないことを示唆したのは民俗学者の谷川健一の常世論だ。谷川は、「常陸-東方の聖地」で、大洗の磯の岩に立つ鳥居を眺めながら、はるか沖縄へと思いを馳せ、そこにニライカナイの常世を重ねている。

『おもろさうし』は海の果からのぼる太陽(てだ)をくれないの鳥が舞うと形容しているが、私はこの比喩がきわめて的確であることを実感した。「おもろ」は「あがる太陽(てだ)」を「ニライの大主(うふぬし)」と呼んでいる。つまり常世の大王というわけだ。そこで岩礁の上の鳥居は、常世の太陽を迎えるためのものだと考えて差し支えない。
<『谷川健一著作集 第八巻』三一書房、P153>

そして、原始において、「常世はすぐ近くに想定される祖霊の島であった」と結論づける。
太平洋の黒潮がたどり着く茨城県沿岸は、漂着神の磯の事例にことかかない。
たとえば、72年に1度執り行われる金砂神社の磯出大祭礼は、片道35㎞を延々日立の水木浜まで神輿で担いぎ、往復する。神輿に載せる御神体は、一説に水木浜の磯に出現したアワビといわれる。御神体のアワビは、72年間山頂においておくので小さくなる。そこで、到着した水木浜の磯で、だれも見ることができない祭が営まれる。

御貢浜に神輿をとどめて、一夜の神秘な祭がある。夜半に龍神が参詣するという。その夜、海上より鮑(あわび)が浮び来る。これを取って壺に入れ、いままでの神体は入れ替わり、海中に帰るという。
<『金砂山の磯出と田楽』日立市郷土博物館、P48>

茨城県央~県北の海岸に伝えられる漂着神の分布図(日立市郷土博物館『金砂山の磯出と田楽』P58)

茨城県央~県北の海岸に伝えられる漂着神の分布図(日立市郷土博物館『金砂山の磯出と田楽』P58)

文章から、水木浜は、貢(みつぎ)浜から転じたことが想像つく。
山と海は空間的に離れていても、よみ(黄泉)に・かえることで、再生する。アワビにとって、水木浜はニライカナイからの漂着の場であることが分かる。
しかし、全国に流布しているはずのミロク信仰が、72年に1度想起することはあっても、日々、よりどころとして意識することはない。

歌い・継ぐことで祖霊神と出会える場は、文字化し、記号化することで、体系化され、意味づけられる。たとえば、祖霊神の上位概念として、統一する神を措置する物語として編まれたのが『古事記』だった。歌い・継ぐ者だった太安万侶が、書き・記すことで、統一化された神々の物語は、歴史となったが、一方で、その語られた場は、後退し、少しずつ忘れられていった。
沖縄には、依然として、歌の場が強く、多く残っているという。それは、書き・記すことよりも、歌い・継ぐことを意識し、選びとったからにほかならないと思う。知念さんが表現に詩を選んだこと、詩の内容が、琉歌の一節と「祖父の姉」の語りという重層的な歌い・継ぐ構造を取っていることなどは、まさに沖縄の歴史からすれば必然であることが理解できる。

(文=野末たく二)

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